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「巡礼街道ウオーキングで、歴史と自然を満喫」


(株)宮本工務設計事務所
常務取締役 瀬尾 武夫

 皆さん方には、宝塚市といえばやはり「歌劇」のイメージが強いですよね。
  もちろん、宝塚歌劇は世界に誇る日本の文化のひとつでありますし、歌劇のおかげで、宝塚市の名前は日本全国に広く知られているのだと思います。
  でも、宝塚市にある見所は宝塚歌劇ばかりではありません。「歌劇」に代表されるモダンな文化とともに、宝塚市には古くから伝わる文化も数多く存在しています。今日は、そのような歴史文化の一端を、皆さんにご紹介しようと思います。

木接太夫彰徳碑  近世の宝塚は、西宮街道、京伏見街道、西国街道、有馬街道などの街道が交わる交通の要衝でした。市域の南部を東西に貫き、現在のJR宝塚線、阪急宝塚線、国道176号などと並行して走る街道筋は「巡礼街道」とも呼ばれ、西国三十三カ所巡りの巡礼たちが行き交ったところです。
  この街道沿いには多くの神社仏閣が並び、また、今でも多くの自然が残された、気軽に楽しめるウオーキングスポットとなっています。今日は、そちらに皆さんをご案内しましょう。

  阪急宝塚線の山本駅を降りると、そこは千年の伝統を誇る植木の里。日本三大植木産地のひとつとも言われ、安土桃山時代に接ぎ木の技術を発見した地として知られています。今も、阪急山本駅近くには、その発見の功績を讃えた「木接太夫彰徳碑」が建てられています。
あいあいパーク  そこからほど近く、巡礼街道からは少し南にそれたところにある、広い公園に面した西洋風の建物が、花と緑の情報発信ステーション「あいあいパーク」。イギリスの美しい地方都市サリーの17世紀頃の佇まいを再現した、お洒落で斬新な雰囲気が魅力です。グリーンショップ、見本庭園、ライブラリーカフェ、各種園芸教室、緑の園芸相談、レストラン、ガーデニンググッズや生活雑貨の販売など、植木産地ならではの楽しみがいっぱいの施設です。このあたりには、造園業者さんが密集しているので、庭造りの参考にのぞいて歩くのも楽しいですよ。

松尾神社 さて、寄り道はこれくらいにして、阪急宝塚線の北側に沿って通っている巡礼街道に戻り、西へと進んで参りましょう。
  京都の松尾大社の末社で、武人・坂上田村麿呂を祀る松尾神社、「眠り観音」で知られる泉流寺、「行基の抛石(なげいし)」がある正念寺、菅原道真を祭神とする天満神社を過ぎ、さらに足を進めていきますと、西国三十三カ所巡りの二十四番札所である中山寺の山門で2体の仁王さんが出迎えてくれます。
中山寺  聖徳太子が創建したと言われるこちらのお寺は、我が国最古の観音霊場とされています。
安産の観音様としても有名で、安産祈願の若夫婦やお礼参りの家族連れなどで、いつも賑わっています。こちらでは、「鐘の緒」と呼ばれる腹帯を授かって安産を祈願し、無事出産すると、今度は新しい腹帯を買い求めてお礼参りをするのがならわしとなっています。
  観音霊場巡りは、シニア世代の余暇時間が増えてきたこの頃、また盛んになってきているようですね。ちょうど、平成20年9月から22年5月までの期間は、中山寺も含めた西国三十三カ所観音霊場の各寺院で一斉に、「西国三十三カ所結縁御開帳」と称して、普段は公開されていない秘仏の御開帳をされるそうです。このような機会に霊場巡りをして、観音様の慈悲の心を学んでみるのも、よいかもしれませんね。
中山寺節分  本堂裏手には梅林があって、紅白一千本ほどある梅が、毎年、季節になると咲き誇り、とても見応えがあります。また、節分の日に催される「星祭節分会」や4月の「無縁経大会式」にはヅカジェンヌも登場しますので、歌劇ファンの方々にも見逃せないですね。

 中山寺を過ぎて、さらに進んで参りますと、阪急電車の売布神社駅付近に至ります。
駅のすぐそばにある菰池という大きな池の横を少し北に上がりますと中山荘園古墳が見えてきます。この古墳は八角形をしていて、日本中でも非常に珍しいものです。聞くところによると、八角形の古墳というのは天皇陵と共通する形式だということで、発見当時は全国の考古学者の注目を集めたのだそうです。
  中山荘園古墳を後にして菰池の横をさらに西へ進みますと、鬱蒼とした森の中に鎮座していますのが売布神社です。シイ林などの社叢は市の天然記念物となっていて、境内全域が環境保全地区に指定されています。延喜式にも名前が残る格式の高い神社ですが、普段訪れる人は少なく、閑静な佇まいに安らぎが感じられます。

清荒神清澄寺  道をさらに西へたどりますと、突き当たりますのが清荒神清澄寺へ続く約1.2キロの長い参道です。ゆるやかな坂道がさながら龍のように曲がりくねりながらお寺へと続いていまして、その両側には飲食店や土産物店など200軒あまりが立ち並び、いかにも門前町といった風情をかもし出しています。
  地元では「荒神さん」の呼び名で親しまれており、「かまどの神様」「火の神様」としても知られる神仏習合のお寺です。平安時代の創建と伝えられていて、幾度か戦火で焼失したこともありましたが、火の神さまとして霊験あらたかな荒神社のみはいずれも難を免れたのだそうです。
  毎月27日と28日が例祭日となっていて、境内はもとより、長い参道も老若男女で埋め尽くされます。
  本堂の奥にあるのが鉄斎美術館です。こちらでは、文人画家・富岡鉄斎の晩年の傑作を中心として千点余りを所蔵しており、日本有数の鉄斎コレクションとして有名です。年4~5回催される企画展で、その自由闊達な筆さばきから生まれる独創的な表現をぜひ鑑賞していただければと思います。

毫摂寺 さて、ここで巡礼街道を少し南へそれて、中国自動車道の宝塚インター近くまで、足をのばしてみましょう。宝塚インターの西側に、古い街並みの面影を残した一角が現れます。こちらが「小浜宿」と呼ばれるところです。江戸時代には宿場町としてたいへん栄えたといいます。
  この一帯は、今から500年程前の戦乱の後にできた毫摂寺というお寺を中心に栄えた町で、お武家さんが有馬へ湯治に行かれるときにも、このお寺をよく利用されたそうです。豊臣秀吉やその甥の秀次が宿を取ったという記録も残っており、その際に、寺の近くにある『玉の井』という井戸の水を利用して、千利休がお茶を立てたという伝承もあります。
  江戸時代の宿場町の面影は、虫籠風の二階窓を持つ民家や白壁の土蔵などに残されています。また、小浜は宿場町であるとともに大工の町でもあり、高い酒造技術も持っていたそうです。これらのいにしえの記録は、地区内にある小浜宿資料館で見ることができます。「首地蔵」と呼ばれる、首から上だけの大きなお地蔵さまもユニークです。

宝塚温泉(外観) さてもう一度、巡礼街道に戻り清荒神清澄寺から西へと向かいますと、JR・阪急宝塚駅付近のひときわ華やかな一角が目に入ってきます。90年以上の伝統を持つ宝塚歌劇のホームグラウンド・宝塚大劇場です。そして、武庫川を挟んだ対岸には宝塚温泉があり、最盛期には数十の旅館が軒を並べていました。今でこそ宿の数は減ってしまいましたが、この両者が観光都市・宝塚を支え続けた二枚看板と言えますね。
  「歌劇と湯のまち」を象徴する中心市街地に降りて参ります前に、JR宝塚駅北側の御殿山地区にも、足を運んでみてください。このあたりが、日本を代表するマンガ家・手塚治虫氏が子供時代を過ごしたところです。

花のみち 昭和3年に豊中で生まれた手塚治虫氏は、5歳のときに御殿山に引っ越してきまして、昭和27年に大阪大学医学専門部を卒業するまでの多感な青春時代を宝塚のまちで過ごしました。このまちで治虫氏は、自宅裏にあった雑木林で昆虫採集を楽しんだり、家族と一緒に宝塚歌劇を観たり、ハイカラな趣味であった家庭用映写機で映画を観たりしながら育ったのだそうです。
  当時の宝塚は、まだまだ緑も多く住宅もまばらだったようです。近所にはキツネやタヌキが出るくらいの田舎だったそうです。一方、すぐ近くには歌劇や温泉があり、治虫氏が通い詰めた昆虫館も遊園地の一角にありました。
手塚治虫記念館(外観)  そんなハイカラな面と古さが入り交じったまちでの生活から、治虫氏は「自然への愛と生命の尊さ」を学び、それが創作活動の原点になったのだと、後にご本人が語っておられます。治虫氏の没後、この地に記念館が建設されることになったのも、氏が生前に「宝塚が一番思い出深いまちだ」と語っていたことが決め手になったのだそうです。 

 そんな治虫氏の思い出が詰まった御殿山一帯を後にして、JR・阪急宝塚駅付近に参りますと、そこはビルが建ち並ぶ近代的なまちなみとなっています。宝塚ファミリーランド閉園後は少し寂しくなってしまいましたが、レビューを楽しむ観劇客が毎日たくさん訪れるおしゃれなまちが、そこにあります。
手塚治虫記念館(内部)  その昔、阪急電鉄の創始者・小林一三は、大阪から宝塚を通り有馬まで電車を走らせようという計画を抱いていたそうですが、結局、その夢は果たせず、阪急の終点は宝塚駅になったのだそうです。
  線路はここで終わっていますが、昔の街道筋は山を越えて今も有馬まで続いています。
  古くは古墳時代から、中世、近世、近代、そして現代に至るまでの人々の営みも、さらに明日へと続いていくでしょう。そんな歴史と未来に思いをはせながら、ここで筆を置きたいと思います。

資料提供
宝塚市役所 企画財政部 政策室 広報課