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論語読みの論語知らず


株式会社サンコム
代表取締役 松本 道彦

もう7,8年も前になると思うが論語を読んでみたいと思った。早速、本屋へ出向きあれやこれやと探して、これだと思ったのが諸橋轍次著「論語の講義」だ。買ってすぐに読んだか、暫く積読であったかは忘れたが、何れにしろ読み始めた。漢文は默読では面白くないので声に出して読むのだがどうもしっくりこない。一人で「子ノタマワク...」とやっても默読同様全然面白くない。だから長く続くはずも無く、三日坊主で終わってしまったように思う。
  それから間もなく、親しくしている友人に誰か論語を教えてくれる人はないやろか、と話したところ、おじさんが元高校の国語の教師で、確か漢文にも造詣が深いはずやとのこと。すぐに訊いてくれと頼んだのが、論語をまともに読み始めることになったきっかけである。それ以来6年をかけて論語を読むことになるのだが、ここまで続くとは思いもよらなかった。
はじめてお目にかかったときの先生の言葉が今も鮮明に残っている。「論語は心の常備薬です」と仰ったのだが、とんでもなく凄い先生だとしか他に云い様がないと思った。先生は、教えるというより一緒に勉強するということでよければ喜んでお付き合いしますと、論語を教えて欲しいという申し出を快く引き受けて下さった。
 先生の本業は住職であり、お住まいはもちろん寺である。月に一度お寺へ通い、先生の「子ノタマワク...」に続き「子ノタマワク...」と我われが声を出すのである。我われというのは、先生の甥っ子である友人ともう一人の友人の計3人だ。畳の上に座ってやるのだから昔の寺子屋とはこんな感じであったのではなかろうかと思いつつ声を張り上げる。
 論語は全部で499章句からなっており、1回の勉強会で10前後の章句をやるのだが、先生は論語だけでなく、漢籍には我われが驚くほどご造詣が深く、つい脱線してしまうと話がとんでもない方向へ進み、5から6章句で終わってしまうことも珍しくはない。これはこれでまた楽しく、談論風発となることもしばしばであった。当初は3人であった塾生も6人になり、脱線すると先生もお手上げではなかったと思う。
平成10年1月からはじめて、すべてを続み終えたのが平成15年10月だから概ね6年を要したことになる。終わったときに、先生が次からどうしますかと尋ねられたので、もう一度始めからやりたいと云ったのだが、先生は既にやりたいことを決めておられたようで、次にいくと孟子を今日からやりますとテキストも準備されていた。
 先生が言われるには、孟子のほうが文体も力強く、そしてリズミカルだとのこと。それでは次にやるのは孟子、とスタートしたのだが、昨年の終わりころから先生の奥様の体調が思わしくなく途切れたままだ。早くお元気にと願っていたところ、亡くなったと甥っ子である友人から電話がかかってきた。7月の始めのことだ。
 「論語読みの論語知らず」とよく聞く。行動が伴わない人のことを云うのだが、孔子の教えをそのまま実践できた人など歴史を振り返っても存在しえたかどうか疑問だ。多分、論語を振りかざすような人を皮肉っていった言葉だと思う。しかし、曲がりなりにも一通り読んで、改めて「我こそは論語読みの論語知らず哉」と実感できたことは幸運であった。もう少し漢籍に触れたいが、先生のお気持ちしだいである。