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悠久の時空を育む『明日香』

角 岡 渥 美
 【(株)アイテクノ】
 「近畿のANABA」第1弾は、滋賀県・湖北地方に伝わる「おこない(神事)」について、湖北地方の文化が紹介されました。
 今回は、第2弾として奈良県明日香村に伝わる大変珍しい『縄掛け』という神・仏事と、飛鳥の歴史・文化の一端などについて考えてみることにして、明日香村を探索してみました。早春の『飛鳥』をデジカメ映像から感じ取っていただければ幸甚です。

 奈良県・飛鳥〔明日香〕地方は、歴史的文化遺産の宝庫として「明日香村における歴史的風土の保存及び生活環境の整備等に関する特別措置法(昭55・5・26法60)」と言う大変長い名称の法律等により保護され、"飛鳥地方の遺跡等の歴史的文化的遺産が、我が国の律令国家体制が初めて形成された時代における政治及び文化の中心的な地域"として数々の遺跡や歴史的文化遺産が保護され、後世に承継されようとしている。

 奈良県高市郡明日香村は、昭和31年7月高市、飛鳥、阪合の3村が合併、村名は、万葉集による同地の呼称『明日香』に由来している。村域は24.03平方㎞・人口約7.200弱の村である。
 昭和45年頃から全国的に"飛鳥保存運動"が高まり、国による保存事業の骨子が決定され、さらに昭和55年には、前述の"明日香保存特別措置法が制定され、一村を対象とした特別措置法は全国的にも類例を見ないものであり、明日香村は、この法律をテコに保存と環境保全に力を入れている。

【明日香村の棚田】 【早春の飛鳥川】
 日本書記や数多くの歴史書に記され、万葉集に詠われた『明日香』は、飛鳥川(大和盆地を流れる、大和川の一支流・一級河川・全長24㎞)が村の中央を南北に流れ、飛鳥時代の遺跡・古墳などがいたるところに点在している。中でも昭和47年3月に発掘調査された『高松塚古墳』は、 極色彩色壁画として特に有名である。
 今年2月には、当時発掘に携わった人々によって「高松塚古墳発掘30周年記念集会」が現地等において催された事は、TVニースなどによっても報道されました。
 『石舞台古墳』や『飛鳥板蓋宮遺跡』、『飛鳥寺』、『橘寺』、『岡寺』等々著名な寺社・古墳・遺跡などが散在している。明日香村は、まさに歴史文化遺産の宝庫と言えます。

【飛鳥歴史公園石舞台地区・石舞台古墳】
 明日香を代表する石造遺物は、やはり『石舞台古墳』でしょう。墳墓上部の封土が失われて巨石を積み上げた石室が露出したもので、30数個の花崗岩で構築されている。とりわけ天井部に使われた石は、長さ12.5㍍、幅17.9㍍、厚さ8.9㍍、重さは77㌧もあるそうです。この古墳は、この地方の豪族『蘇我馬子の墓』と言われていますが『石舞台』と呼ばれる由来は、゜狐が女に化けてこの上で舞った゜とか、゜旅芸人がこれを舞台にして芸を披露した゜からとか言われています。
  それにしても、現代の土木技術を駆使しても大変な築造工事であると思われるのに、このような一大墳墓を造らせた豪族の権力は、どのようなものであったのか?『飛鳥時代』に想いを馳せることにしましょう。

 大和地方には、まだ農耕文化を知らず、狩猟生活をしていた縄文時代から人が住んでいた。そこへ稲作文化が入って来て、いわゆる弥生時代となり、人々の間に農耕生活が定着した。紀元前200年頃と考えられている。その後中国大陸から銅や鉄が伝わって、農耕具が飛躍的に発達して、集団農耕が行われるようになり、米の増産が可能となり、富の蓄積がおこなわれ、次第に身分差が現れ始めて、指導者が必要とされ、ついに大和朝廷の出現となる。

 大和朝廷の存在は、5世紀始めの中国の歴史書によっても証明され、神話時代から歴史時代へ入ったことになる。当時の天皇達は、その死後において壮大な墳墓を築かせたことから、いわゆる古墳時代と呼ばれている。
 飛鳥時代は、こ古墳時代に続くものであるが、それまでの大和朝廷は、覇権を巡っての争いが尽きず、からんで豪族の間でも利益の対立から、闘争が絶えなかった。特にこの時代の直前に入った仏教をめぐる蘇我氏(崇仏派)と物部氏(非仏派)の二大豪族間の対立は激しく、蘇我氏の勝利によってようやく終焉し、聖徳太子という超人的施政者の登場により、秩序ある国家への道が開かれ、天皇中心の律令国家が築かれて行くことになる。
 聖徳太子は、用明天皇の皇子で飛鳥時代の始まりとなった推古女帝の摂政皇太子として政治の全権を委ねられ、その政策は、仏教を基調として蘇我氏の権勢を抑制しながら、天皇中心の統一国家の樹立に有った。
 冠位を定め、憲法を制定し、皇室の権威を高めて国家の安寧を導くとともに、史書の編纂、四天王寺、法隆寺など数々の壮大寺院を建立して仏教の興隆に努めた。この時代の建築や彫刻技術は飛躍的に進歩し、いわゆる飛鳥美術を創り出すこととなった。

 「飛鳥時代」は、推古天皇(女帝)が豊浦宮(トユラノミヤ)に即位した6世紀の終わりから、元明天皇(女帝)が和銅3年(710年)に奈良平城京に遷都するまでの約100年間とされている。
 この間の歴代天皇は、一代ごとに宮を移しているが、推古天皇の豊浦宮とオワリダノミヤを始めとして何れの宮も飛鳥の地にあり、約100年の間に飛鳥を離れたのは3人の天皇だけで、孝徳天皇の難波宮、天智天皇、弘文天皇の近江オオツノミヤであり、この間わずか15年間に過ぎなかった。
【高松塚古墳】 【甘樫丘・暮景この北西に豊浦宮遺跡がある】
 それ故にこの時代の政治文化の中心は、飛鳥に有ったと言っても間違いではなく、飛鳥時代は、中国大陸・朝鮮半島からの仏教伝来に伴い、古墳時代から脱皮して、新しい文化を発展させた時代で、政治・文化・経済社会ともに大構造改革が試みられ、大和国家が貴族・豪族連合政権から、天皇制律令国家へ飛躍したことで、日本国家成立の時代ともいえる。

【飛鳥寺・遠景】
 聖徳太子の没後、政治の実権は蘇我氏にもどるが、中大兄皇子(天智天皇)によって倒され、豪族の政治介入が終わることになる。太子の政治理念は、やがて大化改新によって受け継がれ、天武・持統天皇によって確立され飛鳥時代は終わるのである。
 『聖徳太子』は、今年正月のNHK・TVで長編ドラマとして放映され、まだ記憶に新しい人も多いかと思います。



 さて、本題の『縄掛け神事』(綱掛けとも呼ばれている。)についてご紹介しましょう。原始素朴な陰陽を印象した行事で、子孫繁栄と五穀豊穣とが一体と考えられていた頃の遺風であり、河や道を通って進入してくる諸々の悪疫や禍害を抑制守護するための祈願行事であるとともに、「綱」は、「止切線」としての意味を持つものであると言われています。

【飛鳥川と棚田】
 『石舞台』から飛鳥川の上流に上って行くと、美しい棚田の風景が一望でき、やがて稲淵の集落にさしかかる。神所橋の上に祭壇を設け、飛鳥坐神社の宮司が奉祭して「雄綱」を掛ける。飛鳥川をまたいで注連縄を張り、真ん中に長さ1m余り、直径30㎝ぐらいの藁縄で作った棒状のものがぶら下がっている。よく見ると男のシンボルそのものである。
【稲渕の雄綱】
 さらに、2キロほど上流の栢森集落の入り口には、同じように注連縄が張ってあり、真ん中に傘状のものが吊され、女性のシンボルを表しています。「雌綱」は、龍福寺の僧によって掛けられ、五穀豊穣、子孫繁栄の行事が毎年1月11日に行われます。
【雄綱・近景】 【雌綱・近景】
 この神事の起源はさだかでないようですが、古くから伝わる正月行事として、縄の掛け替えを地元では、「ツナカケ」と呼んで旧正月11日を「初仕事・初田打ち」の日として田畑に鍬を入れ、豊作を祈り縄の掛け替えをしたそうです。
 毎年(今は成人の日に)、「雄綱」の稲渕地区では、各戸主が神所橋に集い、6人がかりで作り上げます。
 「雄綱」は、神主が来て祭祀をして、御幣を男根の上部に刺し、勧請縄で飛鳥川を渡します。朝8時から、午後3時頃までかかるようです。男根を束ねる縄は、平年は12本、閏年は、13本と決められています。
  昔は、吊るすまでに男根をかついで新婚の家にお祝いに行く風習があったそうです。掛け終わると、神主の御祓い・神饌・(米1升・お神酒1升・串刺しみかん)を竹串に御幣を添え神所橋に並べ、竹串し以外の神饌は、悪神が村へ立ち入らないように三度にわけて飛鳥川に流します。
【栢森の雌綱】
 栢森の「雌綱」は、大字の中央川向の古木に集まり、これも6人がかりで作り上げます。女性のそのものを形とり、内部は夏みかん1個を竹で差し入れ、注連縄で巻いています。綱掛け場には福石があり、この上に張ります。中央へ女性のシンボル、両側へ榊と御幣をつるし、縄を垂らしています。神饌は、お神酒とみかん、竹の先を4つに割り、四角に開いて1辺に4個、計16個のミカンを刺します。このミカンは集まった子供に与え、午後4時ごろ川下のフクイシと呼ばれる磐座で龍福寺の住職によって供養が行われ行事が締めくくられます。上流が仏式、下流が神式、いずれも諸々の悪疫や禍害をそこで抑制守護するという、悠久の時空を経て今に残る飛鳥川の風物詩である。
 飛鳥には、このほか飛鳥坐神社の「おんだ祭り」(毎年2月・第1日曜日)と言う「奇祭」が、早春の性神事として行われています。
 皆さんも是非一度、『飛鳥・明日香』を訪ねてみては如何でしょうか。

 《アクセス・近鉄・橿原神宮前→飛鳥駅が便利です。》
 【出典】地元の人の話・現地案内板・明日香村ホームページ・写真14年3月9日現地にて編者